カシミール紛争のグローバルな要素

 インドがパキスタン領内のテロ組織施設とみなした場所への軍事攻撃を行った。カシミール紛争は、インドとパキスタンの独立以来80年近く続く紛争だと言われることが多いが、ある意味で数百年にわたる確執が背景にあると同時に、極めて最近の数年の動きの反映の要素もある。多角的な視野でリスク評価を怠らない分析観察が必要だ。
篠田英朗 2025.05.07
誰でも

 インドが、パキスタンに対する軍事作戦を開始した。4月22日にカシミール地方の観光地パハルガムで武装勢力の発砲により26人が殺害された事件への対応だ。インド政府は、パキスタンが実効支配するカシミール地方のテロ組織の施設9カ所を攻撃したと発表した。パキスタンは5カ所で攻撃を受けたとしている。このうち3カ所はパキスタンが実効支配するカシミール地方、2カ所はパキスタンのパンジャブ州だという。攻撃はミサイルでなされたとみなされているが、パキスタン政府はインド空軍機2機を撃墜したと主張している。この攻撃で死者が3名は出ていると報道されている。

カシミールの地政学的・歴史的位置づけ

 アメリカのトランプ大統領が、インドとパキスタンの間には1,000年以上にわたる係争があると発言して失笑を買ったりしていたが、あながち間違いとは言い切れない。インドに最初のイスラム教の政権と言われるトルコ系のゴール朝の部将クトゥブッディーン・アイバクがデリーを首都とした「奴隷王朝」を確立したのが、13世紀初めだ。その少し前から、イスラム教系勢力のインドへの侵入が続いていた。ルートは、カシミール近辺の平野部だ。ヒマラヤ山脈によって北方と隔絶しているインドへの陸上勢力の侵入は、歴史的にはアフガニスタン方面から、カシミール近辺を通って、インダス川流域・ガンジス川流域に入るルートしかない(大英帝国はインド洋沿岸のカルカッタからガンジス川を北上する逆ルートでインドを支配下したが)。

 トランプ大統領は、第一期政権の際に、米軍撤収をかけた交渉をタリバンとの間で行って、まとめあげている。デリーからイスラマバードを通ってペシャワールからジャララバードへ抜けるルートは、アフガニスタンの首都カブールに通じ、米軍基地があったバグラムにも通じる。カシミール問題は、アフガニスタン問題ともかかわっている。トランプ大統領は、おそらくこのあたりの知識があるのだろう。

謎めいたパハルガム・テロ実行組織

 4月22日パハルガム・テロについては、パキスタンの組織「抵抗戦線(TRF)」が犯行声明を出したとされたが、声明は虚偽だという報道も見られ、実行犯の正体はつかめていない。TRFは、2019年から存在が確認されている比較的新しい組織だが、「Lashkar-e-Taiba(LeT)[ラシュカレ・タイバ:「敬虔な者の軍隊」の意味」という1980年代から活動しているカシミール武装闘争アルカイダ系ジハード主義者の組織の分派だとされている。LeTは、もともとはアフガニスタンでソ連と戦ったムジャヒディンに近い勢力だ。タリバンにも近かったため、反インドだけでなく、反米・反イスラエルの傾向も持つ。慈善活動を行う政治組織として「Jamat-ud-Dawa (JuD)」を持つ。LeTは、パキスタン政府から活動禁止対象とされて、しばしば弾圧対象とされているが、実際にはパキスタンの諜報組織ISIの支援を受けていると広く信じられている。

 LeTは、カシミールのインドからの解放を掲げるが、そもそもムガール帝国が支配していたインド全域をムスリムの手に戻すことが必要だという主張を掲げている。過去に、繰り返しカシミール地方の村落において、あるいは他のインドの都市において、住民・市民を殺害するテロ事件を起こしている。ただし2006年の206人の死者を出したムンバイ列車爆破事件はLeTの分派とされるラシュカレ・カッハール(Lashkar-e-Qahhar)という組織の犯行だとされ、170人以上の死者を出した2008年ムンバイ同時多発テロでは実行犯組織が特定できていないためLeTの関与も疑われる、という扱いになっている。

 TRFという組織が形成されたとされる2019年は、カシミール問題に業を煮やしたモディ首相のインド政府が、インド憲法370条廃止措置で、インド支配カシミールの自治権を剝奪し、連邦政府直轄統治体制を導入した年にあたる。当時は、この措置により、パキスタンとの関係だけでなく、中国との関係も悪化した。4月22日パハルガム・テロは、より直近では、インドの支配体制の強化への不満から引き起こされたものと考えられる。インド政府の措置などもあり、近年はカシミールにおけるヒンドゥー教徒の比率が高まったりしていた。

インドとパキスタンの力関係の変化

 近年、低迷するパキスタン経済をしり目に、インド経済は急速な成長を続けている。10年前はほとんど変わらなかった両国の一人当たりGDPは、現在ではインドがパキスタンの2倍近い規模に上昇している。

 GDPの総額を比較すると、今や人口14億のインドのGDPは、人口2.5億人のパキスタンのGDPの約10倍の規模に膨れ上がっている。

 この発展を反映して、インドは外交的にもBRICSで存在感を放ち、安定した関係をロシアのみならず中国とも維持し、クアッドにも加わってアメリカや日本のラブコールも集め続けている。同じ核保有国といっても、インドとパキスタンの国力の格差は今や歴然としている。

パキスタン内政の混乱

 パキスタン内政は、2018年から続いていたイムラム・カーン首相の内閣が、2022年4月に下院での首相不信任より退陣してから、混乱している。最大野党パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N)党首であるシャバーズ・シャリフ氏率いる野党連合政権は、厳しい経済・財政状況に苦しみ、急激な物価高を中心に国民からの批判を受け、2023年8月の下院解散に伴い退陣した。選挙管理内閣をへて、2024年2月に実施された選挙後に、連立政権が形成されて、首相にはシャリフPML-N党首が再登板することになった。

 なおカーン元首相は、汚職の疑いで服役中である。加えて、昨年8月にカーン首相に近かった元ISI局長のFaiz Hameed氏も逮捕されたことは、通常では起こりえないこととして、大きく注目された。4月22日パハルガム・テロの後、パキスタン軍のSyed Asim Munir将軍が表舞台に出て、インドとの対立を辞さずカシミール問題で情報をしない、といった強い政治的発言を繰り返していることも、注目されている。

 インドの軍事攻撃の後、パキスタンがどのような反応を示すかが注目される。一番の懸念点は、パキスタンの政治情勢が不安定気味で、経済情勢も悪く、合理的な判断が優先されるかは不明な点だ。そもそも今回のパハルガム・テロも、パキスタン内政と結びついた動きだと見ておくべきだろう。

 一般に劣勢な勢力は、テロや冒険的な行動をとったうえで、外部の大国を自分に有利な形で巻き込もうとする行動をとりがちである。パキスタンにとっては、世界のイスラム同胞及び中国を、反インドで巻き込んで、形勢挽回を図りたいところだろう。極めて危険な状態である。

 この点で、イランがいち早く調停に乗り出したのは、評価できる。イエメンのフーシー派が、パキスタンを援護するためにインドの船舶を狙うことを考えている、といった情報も出ていた。フーシー派を支援するイランとしては、だが、そこまでは手に負えない、というのが本音だろう。

日本にとっての留意点

 日本は、安倍首相の時代から、インドとの友好関係を強め、戦略的に重要なパートナーとして、具体的な政策的連携も強めている。ただ一般には、中国に対する警戒心を共有する限りにおいて、そうしているとみなされている。

 インドは、近く日本のGDPを追い抜くことが確実視されている経済大国でもある。軍事的な存在感も大きい。21世紀の三番目の超大国だ。関係の重視は、日本の国益に合致する。テロを許さない、という価値観を共有することも、大切だろう。

 しかし、カシミール問題は、単なる二国家間の領土問題としての性格だけでなく、国際的な宗教間対立あるいはテロ戦争の文脈と連動する要素を抱えている。その点にも十分に留意して、リスク分析し、行動し発言していくことが大切だ。

無料で「篠田英朗・激動する世界の地政学リスクを分析する」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら

誰でも
トランプ高関税政策の構造的事情と国際秩序
誰でも
トランプ政権100日世論調査をどう読むか
誰でも
米国の「クリミア宣言」の放棄の可能性と「スティムソン・ドクトリン」の帰...
誰でも
羅針盤を失った日本のウクライナ支援の行方
読者限定
垣間見えたアメリカの調停姿勢と欧州安全保障のリスク要素
読者限定
「根本原因除去」戦争終結論とロシア・ウクライナ戦争の停戦の行方
誰でも
「トランプ関税」問題の構造的な事情を見る
誰でも
アメリカの高率関税の伝統:ハミルトン主義とマッキンリー主義