「トランプは無能」論の地政学リスク
トランプ大統領が就任して以来、毎日毎日、トランプ大統領の悪口を見続ける機会が多くなった。政策の分析に基づく批判であれば有益だが、ほとんどが「トランプは無能」「トランプは支離滅裂」「トランプは気まぐれなだけ」といった人格的な描写に基づく侮蔑ばかりである。
果たしてこのような理解を広め、トランプ政権の政策を分析することそのものを「意味がない」と拒絶するような態度は、建設的だろうか。むしろそのような態度にこそ、大きなリスクが潜んでいる、とは言えないだろうか。
ロシア・ウクライナ戦争の停戦調停意欲の一貫性
一例をあげれば、ロシア・ウクライナ戦争の停戦調停の努力である。トランプ大統領は、選挙戦中から戦争の終結を目標にすることを強く宣言していた。いわば公約である。
ところが「識者」に限って、「トランプは気まぐれだからどうなるかわからない、米国主要メディアが期待するようにポンペオ氏が重用されてトランプを説得してくれるだろう」、といった根拠のない話を振りまく。
おそらくは自分が慣れ親しんだアメリカのインナー・サークルのコミュニティの感覚からすると、トランプ大統領があまりにも異質であり、あるいは脅威ですらあるので、そのような本能的な防衛反応をしてしまうのだろう。
実際にトランプ大統領が就任して、「ポンペオ氏が重用されてトランプ大統領を説得する」という「アメリカの主要メディアが期待しているシナリオ」が実現しそうにないことがわかると、「トランプがプーチンになった、あまりに無能なので老獪なプーチンの陰謀論にはまってしまったのだろう」といった説が、大真面目に広範な「識者」の間で人口に膾炙し始めた。
「ロシア寄り」「ウクライナ側にいて」の不毛
「ロシア寄り」トランプ大統領が立場を変えないのを見て、隣に座るヴァンス副大統領にも憎しみが向けられるようになった。「気まぐれであるはずのトランプ大統領が突然態度を変えて戦争支援しないのは、隣にいるヴァンス副大統領が余計なことをいつも横でささやいているからに違いない」、というわけである。こうした「識者」の声に影響されたのか、あるいはそもそも自分が「識者」の代表であるのか、2月28日、ゼレンスキー大統領はヴァンス大統領に口論を挑み、惨劇を招いてしまった。ゼレンスキー大統領は、その後も「ウクライナ寄りでいて」といったことを繰り返し述べている。
戦争終結に向けてロシアに誘因材料を提示しようとしたトランプ大統領を「プーチン寄り」という理由で糾弾した「識者」の方々は、トランプ大統領がロシアに対する制裁の強化の可能性を示唆すると、「トランプ大統領がまた気まぐれを起こして批判にこたえて『ロシア寄り』をやめようとしている」といった描写をする。
全ての出来事は、トランプ大統領の「気まぐれ」によって起こっている、という理論である。
「全てはトランプの気まぐれ」論で大丈夫か
こうした現実理解が、日本外交に役立つのであれば、それもいいかもしれない。だがどうもそのような気がしない。このまま「トランプ大統領は無能で気まぐれ、とにかく次の選挙で新しい大統領が生まれるのを期待するしかない」で突進し続けるような余裕は、日本外交にはないだろう。
トランプ大統領の政策の論理を把握することが、大切である。論理を深く把握したうえで、その陥穽を指摘したりするのであれば、まだ良いだろう。
だが「トランプは無能で気まぐれ、ただそれだけで、それ以外には何もない」論だけを押し通すことには、大きなリスクが潜んでいると、懸念せざるをえない。
私は今まだアメリカにいるが、国際関係学の学会「International Studies Association(ISA)」の年次大会に出席したり、研究所や大学の研究者を個別に訪問したりして、意見交換をしたばかりのところだ。本来の自分の専門領域に近い分野の国連職員にも、政務系の方々を中心にして、話をした。
多くの人々が、トランプ大統領の政策を支持していない。しかし、誰一人として、「要するにトランプが無能で気まぐれ、ただそれだけのことで、それ以外には何もない」といった態度を示す者はいなかった。
新しいモンロー・ドクトリンの分析の必要性
学会で印象深かったのは、「モンロー・ドクトリン」への関心の高まりだ。これは8年前にトランプ大統領が就任した際に、その文脈で、私がよく論じていたことだ。当時は誰にも理解されていない気がしていたが、今は関心が高いとしたら、非常に感慨深い。知的に誠実な人々は、単にトランプ大統領を馬鹿にして拒絶するのではなく、分析して理解しようとしている。
ただし「モンロー・ドクトリン」については、数多くの誤解がある。「孤立主義」「西半球主義」といった学校教科書レベルの理解は、基本的にすべて、間違いである。
私自身、篠田英朗「重層的な国際秩序観における法と力:『モンロー・ドクトリン』の思想的伝統の再検討」、大沼保昭(編)『国際社会における法と力』(日本評論社、2008年)、231-274頁、を執筆した際に、かなり集中的に学術専門研究を渉猟したのだが、その奥深さに感銘を受けた経験がある。当時はブッシュ政権の文脈で「モンロー・ドクトリン」の理解をしたかったのだが、今はトランプ政権の文脈で理解しなければならない。
一言、二言で済ませられる話ではないので、このことについては、機会をあらためつつ、段階的に、た論じていきたい。
(サムネイル画像は『アゴラ』2025年3月2日記事より:ゼレンスキー大統領はどこで間違えたのか:反プーチン・ファーストの陥穽 | アゴラ 言論プラットフォーム)
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