マスクvsトランプ決裂が示す本当の重大争点

 イーロン・マスク氏とトランプ大統領の間の罵倒合戦が話題だ。メディアはゴシップ記事のように扱っている。確かに、人間的な確執の感情部分の要素も相当にあるのだろう。ただ、論争が、「One Big Beautiful Bill Act」(OBBBA)(一つの大きな美しい法案)から始まっていることも、見失ってはならない。端的に言えば、アメリカの危機的な財政事情が、人々を苛立たせている。
篠田英朗 2025.06.06
誰でも

マスクvsトランプ決裂が示すアメリカの苦境

 イーロン・マスク氏とトランプ大統領が仲違いをして、SNS上で罵倒合戦をしたことが、大きな話題となっている。週刊誌ネタのゴシップ記事のように扱われている。

 私は学者なので、両者がどのような言葉を用いて相手を罵っているか、といったことには、あまり関心がない。ただ、トランプ政権の命運を決する佳境が近づいていることはわかる。それは中長期的なアメリカの歴史や、国際関係にも大きな影響を及ぼす重大性を持っているだろう。

 争点は、「One Big Beautiful Bill Act」(OBBBAあるいはOBBBあるいはOB3と呼ばれる)」だ。「一つの大きな美しい法案」という名称なのだが、これでは内容がわからないので、日本のメディア等では、「大型減税法案」と整理されるのが一般化しているようだ。

 OBBBAについては、トランプ大統領の思い入れが強い。これで経済成長を実現して、アメリカを強くする、と主張している。他方、マスク氏のような懐疑派の懸念が深刻な形で実現すれば、連邦政府の財政赤字が積み上がり、アメリカの財政破綻が現実味を帯びてくる。

 成功すれば、トランプ政権の支持率が上がるだけでなく、トランプ路線の政権が今後も継続していく可能性が高まるだろう。失敗すれば、あるいはトランプ政権の支持率の低落といったことだけでは済まない恐れがある。アメリカの国債の暴落などの波及効果から、世界経済全体から、国際政治の動向にまで、大きな影響が及ぶだろう。

OBBBAとは何か

 OBBBAは、1000頁もある詳細な内容を持っているとされる。私自身も全文を読むことができたわけではない。マスク氏は、投票した議員にも全部を読んでいない者がいる、といった批判もしている。とはいえ、広範に報道されていて、ある程度は細部まで知られてきている。ただ、その内容の広範であるため、総合的な評価を下すのは、必ずしも簡単ではない。異なる立場から見ると、異なる点が批判の対象になってくる。

 日本のメディアは、罵倒合戦の様子ばかりを伝えて、マスク氏のOBBBAへの不満の様子を伝えていない。そこでCNNの記事の日本語訳を見ると、問題となったマスク氏の6月4日のXのポストを、以下のように訳したりしている。

 「申し訳ないが、これ以上は耐えられない。この大規模で言語道断、バラマキまみれの議会の歳出法案は、むかつくほど嫌いだ」「賛成した人間は恥を知れ。間違いを犯したと自分で分かっているはずだ」。https://news.yahoo.co.jp/articles/3a096f34f1f7c46740e9a8b9eedf146cbf9c8ab4

 ここで「バラマキまみれ」と訳されているのは、原文の「pork-filled」の部分だろう。これは普通、「利益誘導」などと訳される意味を持つ表現だ。直訳すると「豚肉詰め」となるが、つまりこっそり隠して旨いものを入れ込んでいる、ということだ。

 果たしてマスク氏が、具体的に何を指して、「利益誘導」と描写しているのかは、よくわからない。真っ先に思いつくのは、トランプ大統領の発案と思われるチップ収入と残業代を連邦所得税の課税対象外とする措置だ。また、子ども向け貯蓄口座「トランプ・アカウント」を創設して、2025年から2029年までに生まれた子どもに対し、1,000ドルを投資信託に預け入れる口座を設け、将来の経済的安定を支援する点や、子ども税額控除を一時的に500ドル増額して、2028年まで2,500ドルとすることで、家族の経済的負担を軽減する点なのかもしれない。

 ただこれらの措置が、もちろん軽視すべきではない内容を持っているとしても、大勢に影響を与える致命的な措置であるとは思えない。

 OBBBAの主眼は、2017年の時限付き減税措置の恒久化だ。もともと今年が、2017年の減税措置が失効する年になっている。対応が必要になっているのだ。もし恒久化に反対するとしたら、増税に近い立場をとることになる。

 議会での折衝対象となったのは、「SALT 」(州および地方の税金)控除額の上限だ。1万ドルの上限を、4万ドルに引き上げる。上限額がない場合には、どこまでも控除ができてしまうので、上限設定は税収確保を目的だった。したがって上限引き上げは、所得水準が高い層に対する減税策である。この引き上げ措置は、富裕層が多い州から選出された共和党議員の主張を入れたものだ。果たしてマスク氏が、この控除上限額の引き上げ措置を指して「利益誘導」と呼んだのかは、不明だ。税収が減少することは間違いない。ただし経済活動促進効果が見込めないわけではない。

 OBBBAの支出部分の目玉は、国防費の増額(1500億ドル追加・新たなミサイル防衛システム「ゴールデン・ドーム」の開発などの費用)と、国境警備の強化(465億ドル追加・メキシコ国境の壁の拡張や国境警備隊や移民・関税執行局[ICE]の人員増強)だ。ただこれらは、いずれもトランプ政権の目玉政策と言っていいもので、政策項目の削減は難しいだろう。とはいえマスク氏の鳴り物入りのDOGEが、USAID閉鎖などの大騒動を引き起こして削減したとされる支出額が550億ドル程度と言われていることを考えると、この二項目ですでに削減額の4倍の規模があり、小さいとは言えないことは確かである。

 OBBBAは、その一方で、社会保障制度の改革に着手し、「メディケイド(Medicaid)」とSNAP(補助的栄養支援プログラム)の対象となる勤労可能な成人に対し、就労要件を導入して、支出削減を図る。不法移民には給付をしない。学生ローンの支給基準も厳格化する。また再生可能エネルギーへの税制優遇措置を撤廃する。ただしマスク/トランプ論争で話題になったように、化石燃料プロジェクトへの支援は強化することになるらしい。

 マスク氏本人は否定しているが、トランプ大統領はマスク氏が再生可能エネルギー税制優遇措置を(自らが経営するテスラ社のために)潰したいだけだといったことを示唆している。実際のところ、マスク氏がOBBBAのどの点にどのような不満を持っているのかは、判然としない。ただ、この法案によって、5兆ドルの財政赤字が積み増される、といったことを主張しているだけだ。

OBBBAは連邦政府を破綻させるのか

 議会予算局(CBO)の試算では、OBBBAは今後10年間で連邦財政赤字を約2.4兆ドル増加させるという。これは主に、約3.7兆ドルに及ぶ減税措置が原因だとされる。ただし、OBBBAの主眼は、2017年の時限付き減税措置の恒久化だ。もともと今年が、2017年の減税措置が失効する年になっている。もし恒久化に反対するのであれば、増税を支持する立場に近くなる。

 そもそも連邦政府の年間歳出額は約11兆ドルだ。累積債務残高は、約37兆ドルだ。OBBBAだけで、連邦政府の財政に決定的な悪影響が出る、ということでもないだろう。マスク氏の苛立ちは、象徴的な要素が強い。それでもせめて財政赤字を減らしていかなければならない、という危機意識が欠如していることに対する苛立ち、と言ってよいだろう。

 結局、より直近で、最も本質的な問題は、連邦政府債務上限額の問題だ。2025年1月2日現在、アメリカ連邦政府の法定債務上限は、36.1兆ドルと設定されている。これは、2023年6月に成立した「財政責任法(Fiscal Responsibility Act of 2023)」により、2025年1月1日まで債務上限が一時的に停止された後、累積された債務に基づいて再設定されたものである。2025年3月時点で、アメリカの連邦債務総額は、約36.56兆ドルに達している。

 OBBBAは、債務上限をさらに4兆ドル引き上げることを提案している。これにより、債務上限は最大で40.1兆ドルに達する可能性が生まれる。

 現在の債務上限のままでは、2025年8月頃に政府の資金が枯渇する、と財務省が警告している。債務上限を引き上げなければ、連邦政府の活動が停止するだけでなく、債務不履行に陥る可能性がある。そこで、7月中旬までに議会が債務上限の引き上げまたは再度の停止措置を講じなければならないのである。

 この追い詰められた状況の中で、なお経済成長を見越した減税策にこだわるトランプ大統領と議会多数派がいる一方で、際限のない債務の累積による破綻を恐れて抜本的な歳出削減を求める勢力もある。マスク氏は、後者を意識しているようだが、必ずしも明確に後者の立場を主張しているほどでもない。それだけ状況が複雑かつ切迫しているということだろう。そもそもトランプ大統領も、高関税を導入する発表をした際に、貿易赤字と財政赤字の深刻さを根拠にした「国家緊急経済権限法」の適用を主張したように、財政赤字の削減には取り組む意欲を見せている。

 トランプvsマスク対決の内容が見えにくいのは、確かに事情が複雑だからではある。イデオロギー的対立というよりも、困難な状況の中で、それぞれが苛立ちを募らせている事情もある。

 率直に言って、OBBBAが何をもたらすのか、先を見通すのは簡単ではない。ただアメリカの財政状況が切迫した状況にあるということだけは、確かだ。トランプvsマスク対決から、まず感じなければならないのは、その点である。

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